書き殴りたいことやまやまです

自意識過剰な子無しOLのぼやきです

家族旅行より、マブダチ旅行より、”知人旅行”が楽しい

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こんばんは、懺悔の時間です。

現実逃避でやってきた札幌の旅も終わってしまいました。たくさん、ヤケ食いしました。こんなに食っていたらどんなにカフェイン摂取量を減らそうとも意味がないものと思われます。

今回は同居人との2人旅だったのですが、「旅行は1人か、仲の良すぎない知人と」がよいと思いました。

まず、毎日顔を合わせる人間と一緒に出かけると、たいしたリフレッシュになりません。現実から逃避しきれていない感があります。

そして、気を遣わない間柄だからこその諍いが起こります。どこまで気を遣えばいいかわからず、気遣いキャッチボールが成立しないときがつらいのです。

例えば、こちらが(または相手が)よかれと思って行った気遣いが相手には無用なものであったとき、気の置けない間柄であるがゆえのストレートな「無用!」の言葉や態度が返ってくると、なにくそと思う。気を遣ってやったのに、と。頼まれたわけでもないんですが、勝手に無下にされた気がして苛立つのです。

では気を遣わなければよかろうと思うのですが、やっぱり他人は他人なわけで、全面的に気を遣わずワガママ振る舞うというのも申し訳ない気がする。気遣いポイントが自分の中で明確になっておらず、悶々としてしまいます。

私は名所旧跡や風景などへの関心がほぼ皆無で、うまいもん食えりゃそれでいい、あとはいつも通りのことをしたいのです。一方、同居人は少食で写真好き、食べ物よりも絶景などの方が大好物なのです。一緒に過ごせばどちらかが我慢をすることになります。いろいろ付き合ってもらったので悪いよなと、時計台のほうなどに同行してみたのですが本当にどうでもいいなという気分になってしまい、途中から別行動させてもらってひとりでパフェを食べました。

あまり予定を決めすぎると、期待を裏切られたときにふて腐れてしまいそうだったので今回はなるべくノープランで臨んだのですが、やはりある程度は予定を決めておいた方がよいなと反省しました。せめて、お互いが最低限やりたいことを把握しておくべきでした。いつ来るかわからない次回に活かそう。

その点、仲が良すぎない知人というのはいいものです。最低限の気遣いが当たり前であり、「これは気を遣うべきか否か」という選択を迫られることがありません。

話がそれますが、いま、勝間和代さんがいまGoogleでの音声入力に取り組まれています。いろいろな音声入力を試されたようですが、「句読点を打ってくれないGoogleで、音声入力とキーボードを併用する」方法に落ち着いていらっしゃるようです。*1

句読点をある程度入れてくれるiOSなどだと、「音声入力一本で、キーボードを使わなくてもいけるのではないか?」という選択肢が出てくるけれど、Googleならば必ず句読点を補わなければならないので、選択肢はたったひとつ。悩まなくて済みます。些細なことなのですが、「最初から諦められる」というのはすばらしいストレス解消策だと思います。

旅行も然りで、「気を遣わないわけにもいかない家族や友人」より、「気を遣う知人」のほうが、「いま、相手の行動に合わせるべきか否か?」といった悩みから解放されるのでラクな気がする。(家族も友人も知人も、大好きな方々であるというのはもちろん前提条件です。嫌いな人との旅なんて嫌です)

 

ひとり旅は4年くらい前に草津に断食旅行をしたときくらいのもので、それも楽しいという記憶は残っていないのですが、どこかでリベンジしてみてもいいかもしれません。なにしろ、断食のために行ったのに断食に失敗していますからね。

こんな面倒くさいことをねちねち考えている私と一緒に旅行をしてくれた同居人には感謝してもしきれません。いつもありがとう。

*1:Google の音声入力の方がストレスが少ない理由が分かりました。それは、必ずキーボードを併用するからです。 - 勝間和代が徹底的にマニアックな話をアップするブログ