外で音声入力できないのはなぜ…騒音?
— やまま (@yamama48) 2018年3月14日
こんばんは、懺悔の時間です。
最近音声入力の本を読んでいます。
「散歩時間がアイディア出しにとても良い」という話が書いてありました。なるほど確かに、歩いているとふとした思い付きに遭遇することがあります。音声入力であれば紙やペンがなくても、その思い付きがまだ熱いうちにメモをすることができるというわけです。そこで今日は、歩いて出社することにしました。
ところで、私の音声入力場所は主に「夜のトイレの個室」です。そこでぼそぼそと呟くわけですから、iPhone内蔵マイクだけでは心もとない。そのため、イヤホンジャックに差すタイプのマイクまで所持しています。
外で歩きながら音声入力するのは少し抵抗がありますが、このマイクさえあれば、ぼそぼそ声に対応してくれましょう。喜び勇んで、いざ出勤。
早速、マイクに口を近づけて話してみました。しかし一向に音声が認識されません。私の通勤路は大通りに沿っていて、トラックもバスもがんがん通るのです。これは騒音が原因になっている可能性があります。
いや、それでも音を拾うのがマイクの務めではありませんか。否、iPhoneの調子が悪いのかもしれません。なにか、設定があるのかも。
「iPhone 音声入力 外 認識されない」Googleに尋ねてみるも、皆「音声入力すごい!」「ランニング中でもメモできる!」絶賛の嵐です。なんで、なんで私の疑問に答えてくれないんだ。
わざわざマイクまで買ったのに(700円だけど)!
1時間早く家を出たのに!
iPhone Xにしたのに!
くそっ、どいつもこいつもポンコツだ!!
結局私はそこからいちばん近い駅に入り、電車出勤したのでした。
混み合う電車の中で、私は気づきました。Bluetoothの片耳イヤホンをペアリングしたままの状態であったことに。
高機能なイヤホンなら問題ないでしょうが、それは格安なもので、マイク機能は搭載されていない、本当に聴くためだけのイヤホンなのです。私がどれだけ話しても、音声を認識するはずがありません。
iPhoneに罪なし、イヤホンにも罪なし、己の不快を生んでいたのは、己のウッカリでした。
されど私、次はこう思うのです。
「なんでこのイヤホンにはマイクがついていないんだ!」
「iPhone Xの画面表示はなんてわかりにくいんだ!!!」
「自分は優れている」という思い込み
通っているフィットネススタジオに、少し苦手な方がいらっしゃいます。その方が先日、ロッカールームで「鍵がない」とぶつぶつ呟いていました。その後のセリフに私は驚愕したのです。
「私のカギなんて持って行っても、何の役にも立たないのに」
自分が落としたという発想が、ない!
誰かが盗った前提で、彼女の話は進んでいるのです。そんな彼女と、私はよく似た思考回路を有しているのでした。
どうして私たちは、こんなにも「自分の落ち度」を受け入れることができないんでしょう。
その理由を、「自分が優れていると思い込んでいるからだ」と考えてみました。「デキる人間でありたい」という欲は非常に強いです。デキない人間だと見下されるのは最大の屈辱でもあります。
では、「自分が有能な人間である根拠」とは?
私にも、カギなしマダムにも、これが欠如しているのではないかと思います。優秀でありたい、でもその根拠がない、だから根拠をつくる。どうやって?他者を蹴落として、です。
他者を踏んずけることでやっと、「私は上に立っている」と実感して安堵する。それを無意識のうちに繰り返してきたのではないでしょうか。
相対評価の世界のなかでしか、自分を、「憧れの優秀な人間像」に仕立てられないのです。テストの点数がある世界で生きられているうちはよかった。それがなくなったら、このざまです。
テストの点数に代わるものは「他人からの評価」。だから怒られること、注意されることに敏感です。それは私にとって「おまえは優秀ではない」というレッテルのようなものだからです。
知識をひけらかされることにも、弱い。これは「私はその人よりも無知、すなわち優秀ではない」という判断になるわけです。落ち込んだり不快になったりします。逆に私も、相手より優位に立ちたくて無駄に知識を披露することがあるなあ、と今気づきました。やめよう……。(知識の披露は、相手がその情報を求めていたらばコミュニケーションとして成り立つけれども、一方的に聞かされている状態に陥りがちです)
自分を絶対評価で愛するには
自分に自信がないから、いろいろがんばった。勉強でも仕事でも、興味がないこともいろいろやった。がんばったら褒められた。
「褒められる」ことは麻薬のようなもので、徐々に、これがないと自分を保てなくなっていました。他者を踏みつけてでも、悪者にしてでも褒められようとし、逆に、怒られることを回避しつづけてきた。言い訳がましい自意識過女史、一丁上がりです。
考えてみれば、他者との比較なしの絶対評価で、自分のことを認めてあげたことはなかったかもしれません。
まず己に染み込ませるべきは、「私は残念ながら、優秀で特別な人間なんかじゃない」ということ。そして、「残念ながら、それでもとても愛されてしまう人間だ」ということも。
相対評価の世界で生きるもよし、でもそれでは、きっといつまで経っても嫌な奴のままだし、(他人から見て恵まれている条件を有していても、自己認識では)不幸なままの一生です。フィットネススタジオのあのババア マダムを将来の自分の姿にしてよいのか?
ダメだけど、ダメじゃない
「私はダメだけど、ダメじゃない」。
その確信を得るために、実はこのブログを書き始めたことはとてもよいのではないかと思っています。
タイトルのとおり、書き殴っています。連日、同僚に怒られた、嫌われたとくだらないことを書いています。でも、会社という閉じた空間のなかにいると、それがすべてなんです。彼と私を比較し、「怒れるくらい、私よりも知識と立場を有している同僚氏」と「怒られるくらい、彼よりも愚鈍な私」という構図を脳内で描き続けます。思い続けていれば現実にもなりましょう。
そんな出来事をここに書くと、広い世界の人たちが見てくださっているかも、と思うだけで、「ダメな私」というのは、私をとりまく様々な世界のなかのほんの一片であることがわかる。
さらにスターをつけてくださったり、読者登録してくださったり、「そういうひともいるよ」「わかるわかる」といったコメントを寄せてくださったりすると、同僚氏にとっての私は「ダメ」であっても、皆さんにとっては「そんなにダメじゃない」のだという実感がわきます。
私はダメだけど、ダメじゃない。
絶対評価の仕方は、まだわかりません。油断をするとすぐ相対評価思想に囚われます。それでも、このブログを続けることでなにか変化があるのではないかと期待します。
読者の方にとってなんの役にも立たない書き殴りブログですが、わたしの役には立っているのです。